日記

毎日の喜怒哀楽と将来、恋愛。面と向かって言えないこと。

再開、再会、最下位。

いま私は泣いていて、

今までの人生でも私は数え切れないくらいたくさん泣いてきたけど、

 

いま泣いているこの理由が

25年間生きてきて初めてのことで、混乱している。

 

それは悲しさでもなく寂しさでもなく

苦しさでもなく悔しさでもなく

喜びでも怒りでもない。

 

 

人はみんな生きているなぁと思った。

大人になって悩みごとの種類が変わった私たちと、

変わったように見えて、でも実は本質は何も変わっていない私たちと、

 

他人の孤独を知っていながら、自分の孤独を癒されようとしていた過去の私と、

やっぱり変わってしまった関係に対して、いま私の気持ちも変化するべきかどうか。

 

言語化するとまったくちんぷんかんぷんだけど、

そういう葛藤で涙が出ている。

 

 

人に好意を抱くとき、その時抱いた好意はずっと永遠なのか分からない。

 

「その時」のその瞬間、私の愛は絶対確実に存在したし、どんなに時が経っても存在し続けるものだと思う。

だけど時間が経ったいまもずっと愛し続けているかどうか、分からない。

でもかといって、愛しい気持ちがなくなるかと言われたら、そうじゃない気もする。

 

 

なんにも分からないけど、人は生きてるし、

私はこれからも人に生きていてほしいし、

死ぬまで生き続けてほしいし、

死ぬほどつらいなら死ぬ前に頼ってほしい。

 

 

そしてどうして私たちはこんなに、ひとつになれないんだろうね。

 

それだけずっと思っている。

 

子どもだったみんなが大人になって、

それぞれがそれぞれの選択をしてそれぞれの道を進んでいくわけだけど、

その過程の中でどうしても、これまで同じところで同じ気持ちだった人と別れなくちゃいけなくて、

そして自分たちでは別れたつもりはなくても、一緒にいると少しずつ違和感が出てきて、

ある時「あ、私たちは違う道に進んでたんだな」と気付かされて、

それはどうしようもないことで、でも少しだけ苦しくて、悲しくて、寂しい。

 

私は自分の職業と将来を選択して、

だから私にとっては美が何より大切で、芸術や美術やその技術や、そういう中にある「美しさ」が何よりも重要で、どんなことにおいても「美しくないものは要らない」と断言できてしまうし、それがすべての価値観になっているけれど、

それは私にとって職業であり実生活であり現実であり夢でもあり、全てが共通になり得る将来を選択したから、プロの目線で、完璧な気持ちで美を遂行していきたいのだけど、

やっぱり、仕事は仕事、プライベートはプライベートと分かれている職業に進んだ人にとっては、美は娯楽でしかなくて、それが私にとってはとても中途半端に見えて、指摘したくなってしまう。

 

その価値観の差異がしんどくなって、昔親しかった友といつか大人になるにつれ決別していく様が、なんとも言えず、ただ、何も言えない。

コンプレックス

小さい頃、あまり人に甘えられなかった。

末っ子として育って、両親はたくさん愛してくれたけど、とても厳しい人でもあった。

小さい頃から背の順で一番後ろだったから、あまり大人に可愛がられなかった。

 

甘え癖がつかないようにと、1歳の頃には親と違うベッドで眠らされた。

幼稚園のお泊まり保育でお化け屋敷があった時、泣き叫ぶ園児はみんな女の先生に抱っこされていたけど、背が高かった私だけオバケの格好をした男の先生に抱っこされた。とても怖くてますます泣いた記憶がある。

小学校の入学式、新入生はみんな名前の順に並ばされ、2年生に手を繋がれて教室へ連れていかれる。私を担当してくれた2年生は私よりも背が低かったから、新入生なのに先輩よりもデカくて、「あの子大っきいね〜」と笑われながら体育館を出ていくのがすごく恥ずかしかった。

上級生の人たちが1年生の教室に来て「カワイイ〜」とか言う時、私はいつも視線をそらされた。上級生にとって、自分より大きい1年生はカワイクないから。

 

小さい子どものカワイさは、「小さくてカワイイ」だ。ミニチュアみたいな幼児服、手のひらサイズの靴、そういうのは全部「小さいから」カワイイ。

 

私はいつも同学年の他の子よりも大きかった。だから「カワイイ」対象になれなかった。

 

そのうち私は「カワイク」なりたいと思うのをやめた。大人や年上の人に、可愛げをアピールして愛想良くすることをしなくなった。

どんなに「子どもらしさ」を見せたところで、小さくてカワイイ子どもには勝てなかったから。

 

本当は上級生に可愛がられたかった。先生にワガママを言って甘えたかった。

でも私はデカいから、同じことをしてもカワイクなれないんだと実感していた。

 

しばらくすると「大人っぽいね」と言われるようになった。

大人っぽいんじゃなくて、デカいから子どもっぽい振る舞いをすると違和感が出るんですよ、本当の私はどうしようもなく子どもですよ。

そう言いたかったけど、それは「大人っぽく」いなきゃいけない私のとるべき言動じゃないから、言わなかった。

 

小さい頃から習っていたクラシックバレエでは、身長が高いからいつも男の子役やオオカミの役をやらされた。

私だってフリルの付いた衣装を着たり、ティアラを着けたかった。

大学1年生の時はサークル見学に行っても新入生だと思ってもらえなかった。

未成年の時、コンビニでお酒をレジに持って言っても年確されたことがなかった。だからお酒を飲んだし、タバコも吸った。

学生なのに洋服屋で店員さんに「お仕事なにされてるんですか?」って聞かれることなんてしょっちゅうあった。

初めてやったバイトでは、「背が高いから力があるよね!」って言われて重いものをたくさん持たされたし、

初めて私を好きだと言ってくれた人に甘えてみたら、「もっと自立していてクールな子だと思ってた」って引かれた。

 

背が高いから、「強そう」「カッコイイ」「クール」「何でもできそう」「宝塚に入ったら?」。

私にとってはそんなの全然褒め言葉に聞こえない。

 

私ができるだけ我慢するのは、甘えないようにするのは、クールに振舞ってみせるのは、私みたいにデカい奴が甘えても全然カワイクないって言われるからだ。

 

そんなの被害妄想だって言われるかもしれないし、私より背の高い女の子もいるかもしれないけど、でも私は幼少期からこれまでの人生の中でそう思わざるを得ないような体験をいっぱいしてきた。

 

「背が高い方が洋服が似合う」「手足長いしスタイルいいじゃん」「結局はないものねだりだよね」

そんな言葉が一番腹立つ。

違う。

私は小さくなりたいんじゃない。

身長が高いことが嫌だって言ってるんじゃない。

そうじゃなくて、身長の高い私が「カワイイ行動」をした時や、人に甘えたりした時に、それをバカにされたり、引かれたり、そういう自分を否定されたことが悔しくて悲しかった。

 

もうそんな思いをしたくなかったから、できるだけクールに、甘えないようにしてきた。

そういうカワイさは自分には似合わないって言い聞かせて生きてきた。

初対面の人に怖いって言われたり、近寄り難いって言われても、そういうカッコイイ自分でいないと、本当の自分を見せたら否定されそうで怖かった。

 

身長が伸びなくて悩んでいる人にこんな話をしたらきっと憤慨されるのかもしれないし、

人にはみんなひとつやふたつコンプレックスがあるものだよね。

 

進撃の巨人』があるなら『進撃の小人』も作ってほしい。大きいものだけが恐怖の対象ってことはないよ。

 

今、背筋伸ばして自信を持って歩いている私のことが、私はとても好きだよ。

アンケート

恋愛をするといつも、不思議な感情が湧き上がる。

性癖に近いような、でも誰に対してもそう思うわけではなくて、それぞれ相手によって全然違う欲望みたいなもの。

理性とか、理論で解き明かせない謎の衝動。

 

たとえば昔好きだった人、朝太陽が彼の顔を照らした時に白く光って見えた頬の産毛。

それを胸が苦しくなるほど愛おしく感じる気持ちで、私は「ああ、私は彼を心の底から愛しているなあ」と確信を持った。

愛でて愛でて愛でまくって、この人を母親のように包み込みたいと思った。

 

ある時恋愛をしていた人、私は彼の手指を食べたくて仕方なくなった。

細くて長い指、冷たい手、口に入れて飴玉みたく、舐め回したいと思った。

いつも彼の指ばかり見ていた。

 

性欲は悪者にされがちだし、軽蔑や穢らわしいものとして扱われることも多いけれど、

私はその時のそういう欲望を、とっても美しいものだと感じた。

もちろん相思相愛の関係においてのみ成り立つことだけど、産毛を愛すことも指を舐め回したいと望むことも、真っ直ぐで正しい愛情だし、何よりも美しくて綺麗な感情だと思う。

 

その美しさは当事者同士にしか分からないことだし、むしろ他人には到底分かるはずもない気持ちだ。

 

偏愛が何よりも直球の愛であること、狂愛が何よりもまともな愛であること、恋人を鳥かごに閉じ込めたいと思うこと、自分の愛で殺してしまいたいと思うこと、ぜんぶぜんぶ、なんの偽りも捻れもない心で、でもちょっと私はおかしいかもしれない。

 

こんな考えを理解してくれる人はいるんだろうか。

みんなそんなふうに思うことはないんだろうか。

聞いてみたいけど、狂っているとは思われたくないから言えないでいる。

かわいいベルト

その時は、欲望などとは関係のないとても純粋な気持ちで愛しているんだと思っていたけど、でも思い返せばあの気持ちも、私自身の欲望の押し付けでしかなかったなあ、と今さら思うよ。かなしい。

たとえば生活に文句を言う、

愚痴をこぼす、

疲れたと泣き喚く、

「私今こんなに辛いんです」とアピールする、

 

全部全部が無駄だと思えるくらいには大人になってしまった。

 

どんなに泣き喚いても、結局自分で解決するしかないのだということをこれまでの人生で身をもって知った。

 

だからなるべく一人で頑張る。

苦しいことも、自分でなんとかするしかない。

 

男や親や友人や、そういうものにできるだけ頼らない。

 

「頑張る」以外の頑張り方を覚えたい。